モジモジさんが行く?

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ココロのスキマ
 『ドーン!』で有名な喪黒福造ではありませんが、ココロのスキマほど怖い物はありません。
 スキマがあればあるほど、そこを埋めようとココロが自然と何かを求めてしまいます。

 母が毒物に犯され弱っていき、やがて死にゆく様子を冷酷に観察をした16歳少女も、何かココロにスキマがあったのかもしれません。
 犯行を否定する彼女ですが、恐らく『未必の殺意』があったと認定されるでしょう。
 タリウムを摂取すれば、例え致死量ではなくても命を落とすということを彼女は知っていました。(「2ちゃんねる」に彼女が書いたと思われるタリウムに関する記述=彼女のブログにタリウムを入手したとあった日と一致する日付で、文体も酷似していることより推測されています。)

 彼女は何らかの要因でできてしまったスキマを、小動物への虐待や毒殺、そして母への毒物投与観察で埋めようとしたのかもしれません。
 しかし、ココロのスキマを埋められるのは温もりだけです。
 それ以外の物で埋めようとすれば、スキマがどんどん広がってしまいます。そしてそれを埋めるには、以前よりも大きな物、過激な物が必要となってしまうのです。このスキマスパイラルによって善悪も判断できなくなり、悲劇を産むのでしょう。

 と、素人考えでした。
| 思うこと | 19:12 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
興味関心がない事柄の知識不足を批判されても困ります
 人間、興味あることと無いことはいくらでもあります。

 例えば昨今ニュースでも取り上げられている、母親毒殺未遂事件ですが、犯人の少女に精神的な疾患があったとします。
 実際に取り調べにおいて、饒舌になったと思えば、急に沈黙するという不可解な部分がみられるそうです。
 逮捕されたことへの憤りや疑問から、混乱しているだけかもしれないので、この精神的なことが犯行と結びつくかどうかは分かりません。

 この少女になんらかの精神疾患があるのではないかと調べてみると、『アスペルガー症候群』と重なる部分が多々みうけられました。
 私の興味範囲は、ここまでです。アスペルガー症候群に辿り着いたとしても、それがどのような物なのかを細かく調べるまでの興味はありません。

 例えば私が化学の教師だとしても、犯人少女のように深い興味を示す人間の探求心には勝つことは難しいでしょう。人並みよりは化学への興味があり教師になっても、それ以外の部分でも興味事はあり、あまりにも膨大な時間を化学へ費やすことはないと思います。一方少女のようなパターンでは、多くの時間を興味関心事に費やします。また、記憶力に富んでいれば、大学を出て教員となり、教壇に立って何年か経つ教師よりも知識が豊富である可能性は十分にあります。

 例えば私が、何かの精神的な疾患を持っているとします。
 しかし、その疾患を意識していても、どのようなことなのか興味がなければ当事者だとしても、深い知識を得ることはありません。
 逆に当事者ではなくても、精神疾患に興味関心を持っている者であれば、さまざまなケースを調べて、当事者よりも知識を得ていくでしょう。

 これらのことについて、専門科や当事者が、そうではない人よりも知識が劣っていた場合、それは責められることなのかという疑問があります。

 私はこれまでの多くの出会いの中で、私が当事者としての立場でありながら、私よりもそれについて知識が豊富な方に出会いました。初めのうちは、良き相談相手となってくれたのですが、どうも当事者である私が自分よりもそれに対して知識が乏しいということを知ったとき、私のことを見下すようになったのです。
『当事者なのに、どうして知らないのか? なぜ調べようとしないのか?』
 その答えは簡単です。
 私に、その分野の興味がなかったからです。
 でも、そのことは言いませんでした。その人は、知識があるということを誇りにしています。自分が間違った方向の考えを持っていたとしても、言葉を発する能力に長けていたので、まず間違いなく論破できると自負していました。
 そして私は、その人に例え正論を突きつけたとしても、勝つ自信が全くありませんでした。なので、余計な争いをしかけることをせず、その人の前から去ることにしたのです。

 私はされる場所に居られたから良かったものの、例えば家族という関係だったり、師弟という関係だったとしたら、半永久的、または決まった期間は離れることが非常に難しいわけです。
 まだ若かった時代の私は、先生が教えることよりも上の質問をする生徒を格好いいと思っていました。先生に困った顔をさせられる知識を持つ同級生が、素晴らしいと感じていました。
 でも、今は違います。
 比重を置きすぎて偏った知識というのは、時に人を傲慢にさせるものだということに気が付きました。
 オールマイティーの必要はないにせよ、一部の興味関心事に対してはある程度の深い知識を有していて当然ですが、それ以外のことについても、広く浅く物事を知っておく必要があるのです。なぜなら、専門知識だけでは社会の中で生きていくことができないから。調和や歩調を合わせるのに必要なことは、傲慢になってはいけないことです。
 当事者だとしても、興味がなければ深くを知る必要はあまりないはずです。その分、他の興味事を様々に見ていった方が、人間としての深みも出るような気がします。

 成人したとき、薬学についての猛烈な知識があったとしても、経済や政治について常識的なことすら知らないとか、それこそセックスについての知識が大幅に欠如しているなどでは、どのような言い訳があったとしても、単なる傲りだと感じてしまいます。

 何事も、バランスが大切なんですよね。
 そしてそのバランスを計るすべは、多くの人との交流なんだと思います。

 社会のしがらみから失ってしまったいくつもの素直な心を、しっかりと取り戻しながら人生を歩んでいきたいです。
| 思うこと | 16:28 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP